絵本と年齢をあれこれ考える⑫
磯崎園子●絵本ナビ編集長
大人だってわかっていない(大人と絵本)
「きいろいのは ちょうちょ!」だって、そうでしょ。どんなところにいたって、目に飛び込んでくる黄色くてヒラヒラしているものと言えば、間違いなくちょうちょ。ほら、あそこに飛んでいるのだって……。あれ、違うかもしれないの? 黄色くてヒラヒラしたものは全てちょうちょだっていうのは、思い込みだったかもしれないの? 子どもと一緒に絵本を読みながら、私はひとりで立ち止まり、考え始め、勝手に深読みを始めている。
『きいろいのはちょうちょ』(五味 太郎・作 偕成社①)は言うまでもなく、子どもたちに大人気の絵本。ちょうちょの形をした穴あきのしかけをめくれば、そこにあるのは思いもよらないものばかり。子どもたちは無邪気に驚き、喜び、楽しむ。なんてよく出来ている絵本だと思う。と同時に、気がつけば足元が揺らいでいる自分がいる。きいろいのはちょうちょ、それって本当?
①
『きいろいのはちょうちょ』
五味 太郎・作 偕成社
大人だってわかっていない
子どもは、絵本とそれぞれの年齢なりの関わり方をし、その中で楽しんだり、発見をしながら、自らも成長していく。けれど、どうして大人になった今もこんなに惹きつけられるのだろう。それこそ絵本を取り巻く環境にいれば、定期的に聞こえてくるのが「大人と絵本」問題だ。子どもの絵本を大人が読んではいけないのか。大人に向けた絵本を子どもが楽しむことはないのか。いつもそこには明確な答えは見つからない。当然と言えば当然だ。なにしろ読み方は千差万別。しかも、大人はどの絵本だって選びたい放題なのだ。ところが、同じ絵本でも大人になってからの方が心に刺さることがある。それは「大人だってわかっていないこと」があるからじゃないだろうか。たとえば象徴的なもの、比喩的なもの、その意味することは理解できたとしても、その先の答えが見えているとは限らないのだ。
『セミ』(ショーン・タン・作 岸本 佐知子・訳 河出書房新社②)という、全体から不気味な雰囲気を漂わせている絵本がある。コツコツと仕事をこなし、誰からも疎まれ、何も楽しみなんてない17年を過ごした後、やがて「その時」を迎える主人公のセミ。森へ帰った後、ニンゲンのことを思い出すと笑いがとまらなくなるという。鬱々とした気分になりながらも、限りなく自分たちのいる世界に近いことが理解できる。セミに取り残されたような気持ちになりながら、それでも生きていかなくてはならないと思う。一方、『セミくんいよいよ こんやです』(工藤 ノリコ・作 教育画劇③)の主人公もセミだ。「いよいよこんやです」というセリフから、こちらもまた「その時」を迎える様子が描かれていることがわかる。ところが、雰囲気は前者とはまったく異なる。土の下とはいえ、何不自由ない充実した暮らしが垣間みえるセミくんの部屋。まわりからの祝福。そして何の気負いもなく第二の人生へと踏みだすセミくん。間違いなく人生のピーク。その時までをどう捉え、その先をどう過ごすのか。どちらがいいのかわからなくなってくる。でも、表現の方法は違えど、彼らはとても生き生きとしているように見える。
②
『セミ』
ショーン・タン・作 岸本 佐知子・訳 河出書房新社
③
『セミくんいよいよ こんやです』
工藤 ノリコ・作 教育画劇
『まばたき』(穂村 弘・作 酒井 駒子・絵 岩崎書店) を読めば、どんな人生でも一瞬の出来事なのかもしれないと感じ、『パイロットマイルズ』(ジョン・バーニンガム&ヘレン・オクセンバリー・絵 ビル・サラマン・文 谷川 俊太郎・訳BL出版)を読めば、人は亡くなった後でも、その人生は続いていくのではないだろうか、とも感じる。絵本を読めば読むほど迷子になっていくようだ。
大人だっておもしろい
絵本の主人公には、立派な大人も登場する。そうか、彼らなら答えを教えてくれるに違いない。だって同じ大人なんだから。自立した生活だって送っている、はず?『ちいさなおじさんとおおきないぬ』(バールブロー・リンドグレン・文 エヴァ・エリクソン・絵 菱木 晃子・訳あすなろ書房)では、その風貌から安心して読み始めると、あっという間に突きはなされる。このおじさんは、友だちをつくるために四苦八苦し、やっとできた友だちが他の子と仲良くしているからと、大きなショックを受ける。なんだなんだ、これじゃあ子どもと全く同じじゃないか。玄関のドアから顔を出しながら理由ばかりを並べたて、決して家を出ようとしない青年が登場するのは『ウォッシュバーンさんがいえからでない13のりゆう』(中川 ひろたか・作 高畠 那生・絵 文溪堂)。彼は言い続ける。「だって、外に出たらドアにはさまれるかもしれないじゃない。カラスにつつかれるかもしれないし、柿の実が落ちてくるかもしれないし」……それはそうだけど。
『ふまんばかりのメシュカおばさん』(キャロル・チャップマン・作 アーノルド・ローベル・絵 こみや ゆう・訳好学社)はぶつくさ文句を言いすぎて、言ったことが全て本当になってしまい大変な騒ぎが起きているし、『ねこのセーター』(及川 賢治、竹内 繭子・作 文溪堂)に登場するねこは、仕事があるのにすぐ飽きてしまい、おまけに怠け者でせっかちでお行儀が悪いときている。彼らは本当に大人なんだろうか。大人にしては、あまりにも魅力的すぎないか。いや、大人の姿をした子どもなんだろうか。そもそも、これを読んでいる時の自分はどうなんだろう。大人として読んでいるのか、それとも子どもの頃の自分に戻って読んでいるのか。油断をしていると、大人の姿をした子どもが、凝りかたまっている脳に疑問をなげかけてくる。あなたは今、大人なの?
確かに大人になった今でも、自分がよくわからない。よかれと思ってした行動が混乱を招きいれ、ささいなことでくよくよし、誰かのことを思い勝手に涙し、世の中の仕組みを考え始めたらとまらなくなる。それらを全て包みこみ、まるごと受けとめてくれるのも、また絵本だ。『ふくろうくん』(アーノルド・ローベル・作 三木 卓・訳 文化出版局④)のように、ローベルの作品に登場するキャラクターたちはどこまでも繊細で、それでいて可笑しくて愛らしい。読んでいるだけで、自分も肯定されているような気持ちになってくる。
④
『ふくろうくん』
アーノルド・ローベル・作 三木 卓・訳 文化出版局
まだまだ、まだまだ…
そうは言っても、子どもと大人が明確に違うと言えるのは年齢だ。子どもに比べて、大人は圧倒的に経験を積み重ねている。たとえば『あおくんときいろちゃん』(レオ・レオーニ・作 藤田 圭雄・訳 至光社⑤)のように、くり返し読みながら、自分なりの解釈を重ねていくことができる絵本がある。子どもの頃に受け止めていた内容と、今の自分がそこに描き出す景色は違っている。5年前と今でも違えば、これから10年後にもまた変わっているのだろう。『ちいさいおうち』(バージニア・リー・バートン・文と絵石井 桃子・訳 岩波書店)もそうだ。自分のおかれている環境の変化、家族関係の変化、社会の変化……それぞれが複雑に絵本の読み方に影響していき、そのたびに絵本は違う答えを見せてくれる。絵本の懐は、思っているよりもずっと深い。⑤
『あおくんときいろちゃん』
レオ・レオーニ・作 藤田 圭雄・訳 至光社
さらに自分よりずっと上の世代となる母は、世にも怖い絵本『いるのいないの』(京極 夏彦・作 町田 尚子・絵 東 雅夫・編 岩崎書店)を読んで「いやされる」と言い、絵本ナビスタッフの同僚の父は『たぬきのばけたおつきさま』(西本 鶏介・作 小野 かおる・絵 鈴木出版)を読んで涙を流すと言う。それはどういう感情なのだろう。今の私にはすぐに推し測ることはできない。「大人」とひとくくりにするなかれ。絵本の読み手として、自分には、まだまだわかっていないことがたくさん待っているのだ。
絵本だけでなく、その周辺に思いを馳せながら広く読んでいくのも大人ならでは。「旅の絵本」シリーズ(安野 光雅・作 福音館書店)は、刊行から40年にわたって描き続けられた安野さんのライフワーク。世界中を旅しながら、その視点は固定され、読者は安心して安野さんの切り取った景色を味わう。自分の好きな部分を切り取り、その土地に憧れ、「いつか行ってみたい」という生きがいまでつくってくれる。絵本が自分の人生に静かに寄り添ってくれている。まるでその存在は、『わたしのバイソン』(ガヤ・ヴィズニウスキ・作 清岡 秀哉・訳 偕成社)のよう。彼女はバイソンの何から何までが好きなのだ。
さて、連載「絵本と年齢をあれこれ考える」は今回で最終回。0歳から始まって、全12回でやっと大人まで辿りつき、結局わかったのは、絵本はどの年齢でも楽しめるということ。けれど、その年齢でしか受け取れないものがある。だからこそ、私はますます「読者の側」に興味がわいてくるのである。
そして、なんとこの連載も2回の延長が決まりました! これは大変、番外編を考えなくては。『まだまだ まだまだ』(五味 太郎・作 偕成社)、物語はここからスタートだ。五味さんだって言ってくれています。
★いそざき・そのこ 絵本情報サイト「絵本ナビ」の編集長として、おすすめ絵本の紹介、絵本ナビコンテンツページの企画制作などを行うほか、各種メディアで「絵本」「親子」をキーワードとした情報を発信。著書に『ママの心に寄りそう絵本たち』(自由国民社)。