絵本と年齢をあれこれ考える⑪
磯崎園子●絵本ナビ編集長
あの子は、私。(6歳以上と絵本)
「わたし」は私じゃない?
「わたし」は「わたし」。でも、それって本当? 生まれたばかりの赤ちゃんから見ると「おねえちゃん」。お兄ちゃんから見ると「いもうと」。お母さんやお父さんから見ると「むすめ」だし、おばあちゃんやおじいちゃんから見ると「まご」。先生から見れば「せいと」だし、みっちゃんからみれば「おともだち」。犬から見れば「にんげん」、宇宙人から見ると…「地球人」!? 絵本『わたし』(谷川 俊太郎・文 長 新太・絵 福音館書店①)を読めば、世界が大きく揺らぐ。なにしろその世界は「わたし」を中心にまわっているはずだった。それなのに、「わたし」は自分だけではないことに気がついてしまうからだ。「わたし」は誰かの一部であり、誰かにとっての「わたし」は自分ではない。この驚きは大きい。けれど、この絵本を読めば必ずしも衝撃を受けるかといえば、そうではない。当たり前のこととして受けとめる人もいれば、なにも不思議に思わない子だっている。なぜなら、絵本の中から何を発見していくのか、そのタイミングや受け取り方は自由だからだ。文章が読めるようになり、読解力もついてきた小学生ともなれば、絵本の前では大人と対等になってくる。それこそ、大人と同じタイミングで揺らぐことだってあるだろう。絵本には、世界を広げてくれるきっかけがたくさん隠れている。だからこそ、適齢期と言われる3~5歳を越えてからの絵本の存在も、また興味深いのである。
①
『わたし』
谷川 俊太郎・文 長 新太・絵 福音館書店
それっていいこと? わるいこと?
同じく谷川俊太郎さんの詩による絵本『うそ』(谷川 俊太郎・詩 中山 信一・絵 主婦の友社)の中で「ぼく」は考える。「おかあさんはうそをつくなと言う。それはきっと、うそが苦しいと知っているから。だけど、ぼくはきっとうそをつく。うそをつく気持ちはほんとうなんだ。」その考察は深く、答えは見えない。うそって、ついてはいけないものなのだろうか。ごまかすようなうそは嫌いだし、人を傷つけるのもよくない。じゃあ、本当ってなんだろう。私はいつも本当のことを言ってるのだろうか……。気がつけば、絵本の中の「ぼく」が「わたし」をじっと見ている。『ほんとうのことを いってもいいの?』(パトリシア・C・マキサック・作 ジゼル・ポター・絵 福本 由紀子・訳 BL出版)で語られるテーマはもう少し複雑だ。うそをついてはいけないと怒られたリビーが、これからは本当のことだけを言うと決意する。ところが、本当のことを言おうとすればするほど、周りのみんなを怒らせてしまう。どうしてなんだろう?
小学生になれば、目の前に経験したことのない問題が次から次へとふってくる。物事を善と悪に分け、明快に理解していくことも必要だが、その間には整理しきれない感情があるということを知るのも、同じくらい大切になってくる。世界は年齢とともにどんどん複雑になっていく。正解がすぐ近くにあるとは限らない。
『にげてさがして』(ヨシタケ シンスケ・作 赤ちゃんとママ社②)の中で、作者はもし答えが見つからなかったらその場所から逃げればいいと言う。足を使って自分で動き、自分で考え、自分で決めていけばいい、と。これらの絵本が伝えてくれるのは、道は一つじゃないということ。あらゆる考え方、感じ方、可能性があるのだということ。そうやって自分と向き合う時間を生みだしてくれるのも、また絵本の役割なのだろう。
②
『にげてさがして』
ヨシタケ シンスケ・作 赤ちゃんとママ社
あの子は、わたし
自分の心の中を知ることで、今度は知らない誰かの心の中にも、自分と重なる部分を見つけだすことができるようになっていく。日常の中で起こる、友達との些細なすれ違いによる気持ちの揺れを描く絵本『むねがちくちく』(長谷川 集平・作 童心社)。どちらが悪いわけでもないけれど、後悔するような言い方をしてしまい、主人公の女の子は自分を責めたり、友達のせいにしてみたり、心が大きく乱れる。その様子を見て、「あやまればすむこと」と答えを出して終わるのか、自分のことのように胸を痛めてしまうのか。その読み方で絵本の印象は大きく変わってくる。
『ひみつのビクビク』(フランチェスカ・サンナ・作 なかがわ ちひろ・訳 廣済堂あかつき)では、子どもたちの持つ緊張と不安を、ビクビクという生き物として描く。その大きさに呼応してビクビクの体もどんどん大きくなっていく。外に出るのも、誰かと話をするのも邪魔をするようになり、ついに「わたし」はひとりぼっちに。そんな時、クラスの男の子の後ろにもビクビクがいるのを見つけ……。誰もが同じような気持ちを抱えているからこそ、共感できるこのお話。「自分だけじゃない」と思えることで、窮屈な世界が少しだけ広く見えてくる。
『ジェーンとキツネとわたし』(ファニー・ブリット・文 イザベル・アルスノー・絵 河野 万里子・訳 西村書店)の主人公は、どこにも居場所がないと感じている少女エレーヌ。彼女は大好きな本『ジェーン・エア』を読み、その世界の中に閉じこもる。そんな繊細で引っ込み思案な彼女の一日はとても長く、それを細かく丁寧に描いていく。他人を完全に理解することはむずかしいけれど、そのどこかに自分を見つけだすことはできる。「あの子は、わたし」。そうやって読めば、絵本の世界にぐっと深く入りこんでいくことができるのだ。
外の世界へ
その状況や環境が自分と大きく違ったとしても、想像する力があれば、自分と重ねて読むことができる。そうして、さらに読める絵本の範囲は広がっていく。「朝、目をさますといつも、ぼくのまわりはことばの音だらけ。 そして、ぼくには、うまくいえない音がある」そう始まるのは、『ぼくは川のように話す』(ジョーダン・スコット・文 シドニー・スミス・絵 原田 勝・訳 偕成社③)だ。吃音のある詩人をささえた少年の日の出来事を、圧巻の景色と心情あふれる言葉によって表現するこの絵本。みんなと違うその喋りにくさが、そのことによる極度の緊張が。そして、彼の発見がどれだけ大きなものだったのか、その発見がどれだけ彼の心を救うことになったかということが。当事者じゃなくとも、しっかりと伝わってくる内容となっている。
③
『ぼくは川のように話す』
ジョーダン・スコット・文 シドニー・スミス・絵 原田 勝・訳 偕成社
『二平方メートルの世界で』(前田 海音・文 はた こうしろう・絵 小学館)の作者は小学生だ。入退院を繰り返す中で、自分が実際に体験し感じた気持ちを、素直に丁寧に、そして強い想いを込めて描き出す。『ランカ にほんにやってきたおんなのこ』(野呂 きくえ・作 松成 真理子・絵 偕成社)の主人公は、遠い国から日本の小学校に転校してきた10歳の女の子。日本の言葉も習慣も文化もわからずに教室に座っている彼女のその不安は、想像すればすぐに痛いほど感じることができる。『せんそうがやってきた日』(ニコラ・デイビス・作 レベッカ・コッブ・絵 長友 恵子・訳 鈴木出版)が描くのは、ある日突然戦争がやってきて、何もかもを吹き飛ばし、難民となってしまった女の子の話。「あなたの場所はありません」と言われるほんの少し前までは、学校に通い、好きな絵を描き、歌をうたっていたのだ。
たとえ話は短かったとしても、背景や感情や表情としっかり向き合い、読み解いていく。そうして自分なりに解釈し、考えを広げていく。年齢を経て、自分の外の世界を理解していこうとしている子どもたちの背中を、絵本はしっかりと支えてくれている。
それはいつでも近くて遠い話
想像力をもってしても、実際にはどうしてもわからなくなってしまうテーマがある。『キツネ 命はめぐる』(イザベル・トーマス・文 ダニエル・イグヌス・絵 青山 南・訳 化学同人④)は、科学的根拠に基づきながら「生きものは死んだらどうなるの?」という素朴な疑問に、物語の中でしっかりと答えてくれる。『100万回生きたねこ』(佐野 洋子・作・絵 講談社)では、「生きること」と「死ぬこと」を哲学的に考える経験ができる。『ずーっとずっとだいすきだよ』(ハンス・ウィルヘルム・作・絵 久山 太市・訳 評論社)のように、実際に大切な家族を失った時のための心のケアの方法が明確に優しく描かれている絵本の存在もある。どれもが「死」というむずかしいテーマを扱いながら、アプローチの方向はさまざま。その出会いのタイミングで受けとめ方は変わってくる。
④
『キツネ 命はめぐる』
イザベル・トーマス・文 ダニエル・イグヌス・絵 青山 南・訳 化学同人
小学生になったからといって、意味のある絵本ばかりを読まなければならないわけではない。中学生になったって、大人になったって、絵本を読む時は、ただ楽しめばいいのだ。それも含めて変わらず多くの絵本に触れていってもらいたいと思うのは、その時にしか感じられない感情があるから。衝撃を受けるほどの出会いが待っているかもしれないからだ。大人と一緒になって頭の中をぐるぐるさせる、そんな時間はとても短くとも貴重なものなのだ。
さて、絵本と年齢について書いてきたこの連載。次回はいよいよ最終回ということで、テーマ「大人と絵本」について。お楽しみに!
★いそざき・そのこ 絵本情報サイト「絵本ナビ」の編集長として、おすすめ絵本の紹介、絵本ナビコンテンツページの企画制作などを行うほか、各種メディアで「絵本」「親子」をキーワードとした情報を発信。著書に『ママの心に寄りそう絵本たち』(自由国民社)。