「こころの木」 未完の物語
その木は根の裏をさらし、じっと同じ所で横たわっていた。二〇一二年春。大津波でさらわれた町の痕跡と僅かに残った防風林の記憶が散らばる無人の浜を、めずらしく通りかかった人がいた。浜の者ではない。津波をまのがれたとしても、ここを歩く人はもういない。木はその人を呼び止めた。
「わたしの姿を描いてください」…絵描きは、沈黙の中にかろうじてppの声を聴いた。風がその声をかき消し、開きかけたスケッチ帖をさらっていこうとする。剥き出しの根の裏で風を避けると、絵描きはえんぴつを取り出した。
土の下にあって木を支えてこそ根だと思っていたが、目の前の一〇メートルを超す大樹は倒れても凛と木の姿を保っていた。流れ着いた荒野で、あの日からずっと腕(枝)を大地に突っ張らせ自分を支えつづけていたのか。
一年後、月刊誌から掌編童話の連載の話がきた。3・11以降絵描きからファンタジーが消えてしまっていた。でも木の話なら書けるかもしれない。
木が好きだった。木のスケッチは木との対話のようだったし、拾ってきた実やどんぐりは鉢で育てていた。
「クロマツから始め、最終回もクロマツで」。こうして連載『わたしの木、こころの木』は始まった。さくら、アカシア、ケヤキ、ブナ、どんぐり、ヤドリギ、架空のたぬ木まで、まるで木のしりとりのように12の絵童話がぽんぽこ生まれていった。
二〇一四年一月、クロマツの腕は辛うじて身体を支えていたが、その足元には菜の花が一株、灯りのように咲いていた。クロマツの歳月の記憶と新しいいのちの最終章を描く。
12のちいさな木の物語は一冊の絵本に生まれ変わった。絵本ができてからも絵描きはクロマツに会いにいった。
二〇一五年。クロマツは復興道路造成にともない撤去されることになった。
風が吹きすさび人の住めなくなった浜に堂々と横たわりつづけ、根の裏をさらしながらも木と浜の記憶を伝えようとしたクロマツ─私の「こころの木」の物語は終わってはいない。
(いせひでこ)●既刊に『チェロの木』『七つめの絵の具』『木のあかちゃんズ』など。
平凡社
『わたしの木、こころの木』
いせひでこ・絵・文
本体1,500円